全盛期時代の体格は、身長170cm、体重85kg。柔道家として決して恵まれた体格ではなかった。しかし、努力によって築き上げられた強靱な肉体と、飽くなき探究心で磨き上げられた技をもつ柔道家として、15年不敗を誇った伝説の柔道家がいた。大正6(1917)年9月10日、熊本県飽託郡川尻町(現在の熊本市南区川尻)に生を受けた木村政彦だ。貧しい家庭に生まれ、小さい頃から家業である「砂利すくい」「砂利あげ」を手伝っていた。大人と同じように、川底から砂利をすくい、それを川岸にあげることを繰り返しやっていたことが、柔道家として必要な肉体鍛錬につながった。まさに筋金入りの筋肉は、幼少期から築き上げられてきた鍛錬の賜物であった。小学校でもケンカは負け無し。小学4年生の時には、6年生5人を相手に全員倒してしまった逸話が残っているほどだ。ところがある日、柔道の経験者である学校の担任教師から、掃除中にふざけたことをとがめられ投げ倒された。屈辱を味わった木村少年は、教師に復讐したいという負けず嫌いの精神から柔術の町道場に通うことになった。理由はともあれ、木村政彦の柔道家としての無敗神話は、熊本川尻の小さな道場からはじまった…。
今でも、憧れと畏怖の念をもって語り継がれる伝説の柔道家・木村政彦氏。その柔道人生の第一歩を語るだけでも、これだけの文字数をかけて語っても語り尽くせないほど。木村政彦氏の人生は、何本も映画ができるのではないかと思われるくらい、信じられない数の逸話が残っています。全日本選士権での最年少優勝、三連覇、師弟悲願の天覧試合制覇をはじめとする、柔道家としての15年不敗を誇る輝かしい経歴。得意技である大外刈りと腕緘(うでがらみ 通称:キムラロック)は相次ぐ失神者と脱臼者によって禁止されるほど、他を寄せつけない強さ。負けたら腹を切る、という決死の覚悟で短刀を持ち歩いていたという話。勝ち続ける肉体をつくり、技を磨きあげるために、誰かが3時間の練習を行えば、その3倍の9時間以上の練習を積み上げる「三倍努力」は木村政彦氏を語るうえで欠かせないキーワードでもあります
柔道家としてのキャリアを着実に積みあげ、史上最高の柔道家として嘱望されていた時期に、プロ柔道に参加。さらにその後、妻の病気の治療費を稼ぐためにプロレス界に転向します。当時人気を博していた力道山との因縁の「昭和の巌流島」と呼ばれる対戦は、ディープな格闘技ファンにはよく知られている試合でもあります。後世に伝説のように語り継がれ、議論を生む対戦はほかに無いといってもいいほどです。この対戦での敗退後に海外放浪をしていた木村政彦氏は、昭和36(1961)年に拓殖大学の柔道部監督として柔道界に復帰。その後は後人の指導者として手腕を振るいます。